【ネタバレ注意】先に小説を読む派の私が先に映画を見た『かがみの孤城』!映画の魅力と小説の魅力をお伝えします!
- tetsutetsutake
- 2023年2月10日
- 読了時間: 11分
更新日:2023年2月16日
年末に『かがみの孤城』の映画を見ました。
辻村深月が書いた小説が原作であることは知っていましたし、なんなら本屋大賞を獲ったことことも知っていました。
正直に言えば気になるけど読む時間が取れていない分類に入っていた小説です。
私は、小説の映画化に関しては、基本的には先に小説を読んでから映画を見る派です!
ですが、『かがみの孤城』に関しては、時間的制約などもあり、先に映画を見ることにしました。
映画を見てすごく小説が読みたくなったので、1月中に読み切った、という背景があります(Twitterでそう言ってから実際に読了報告もしました(笑))。
今回は、ネタバレ盛りだくさん(になってしまうと予想します…)で、映画と小説の比較をしながら『かがみの孤城』の感想を書いていきます!
※細かい内容を書いていくので、映画か小説、どちらかを知っている方の方がより楽しめると思います。
<目次>
先に小説を読む派の私が先に映画を見た理由
『かがみの孤城』のあらすじ
『かがみの孤城』で特に小説と映画の違いを感じたポイント3つ
①こころが呼んでいた「ゲームの間」
②女子達が仲良くなるスピード
③アキはいつもあの人から逃げていた
『かがみの孤城』の特に映画でよかったと感じたポイント3つ
①こころが学校に行けなくなった原因の描写の臨場感
②こころが喋り出すまでの間で心情がみえる
③「×」に手をかざしてこころが見たみんなの過去描写
『かがみの孤城』の小説を読んでよかったと感じたポイント3つ
①こころ目線でお母さんの心情がわかる
②こころが城にいない時の生活を感じられる
③「心の教室」の成り立ちがわかる
『かがみの孤城』は映画でも小説でも、どちらが先でもプラスがある!
先に小説を読む派の私が先に映画を見た理由

今回、『かがみの孤城』は映画を先に見ました。
小説が先にベストセラー(までいかなくても、本屋に普通に平積みにされているぐらい)の場合、私は小説を先に読むようにしていました。
けれど、今回は映画を先に見た形です。
理由は、大きく分けて3つありました。
1つ目は、シンプルに時間がない(笑)
映画の予告編を見たのが12月上旬でした。
公開日は12月23日。
「え、お仕事も年末に向けて忙しくなるのに、読む時間作れない!」
映画の方が先に公開終了となるので(本はオンラインでも買えますから)映画を優先しました。
2つ目は、読書好きな友達が映画を先に見る派だったから、です。
元々本を読んでいた作品は別なようですが、映画をきっかけに原作にも興味を持つ場合、先に映画を見るそうです。
理由を聞いたら、映画から先に見た方がどちらも好きになれるから。
キャラクターのイメージなども映画に準じるので乖離も少ないそうです。
3つ目は映画を見たら原作を読みたくなったからです。
映画だけでも十分に面白いしいろいろと考えました。
でも、原作にしか書かれていないものがあるはず、と自然と思ってしまったのです。
そう思って映画館を出たら、そのまま近くの本屋で小説を買っていました(笑)
このような事情で先に映画を見てから小説を手に取りました。
それぞれの強みも違いも見えてきたので、そちらについて書いていこうと思います。
『かがみの孤城』のあらすじ
『かがみの孤城』を知らない方向けの簡単なあらすじをまとめておきます。
『かがみの孤城』の主人公、安西こころは中学1年生。
理由があって学校には行っていない状態でした。
そのこころの部屋にある姿見がある日、光り出します。
不思議な光景に興味はあるものの恐怖もあるこころはおっかなびっくり鏡に触って鏡の向こう側へと向かいます。
そこにいたのはオオカミのお面を被った「オオカミ様」。
彼女はこころが最後の一人だと伝えて城の中へ。
そこで、こころは同じように光った鏡を通してやってきた6人の中学生と出会います。
オオカミ様は「願いの鍵」を探せ、といいます。
鍵が見つかるまでの間は城への出入りは自由だし、城で何をしていてもいい、と。
3月30日の期日まで、こころをはじめとした7人は、願いの鍵を探しながら過ごしていくのです。
『かがみの孤城』で特に小説と映画の違いを感じたポイント3つ
さっそく、それそれの違いについて書いていきます!
細かい違いの話ではなく、割と重要なのではないかと感じた箇所を3つ挙げていきます。
①こころが呼んでいた「ゲームの間」

主人公であるこころが、小説では2回目に城を訪れたときに男子2人…マサムネとスバルがテレビゲームをしていた場所がありました。
こころが来るたびにマサムネとスバルがゲームをしているので、心の中でその部屋は「ゲームの間」と呼ばれるようになります。
ブラウン管のテレビを持ち込んで遊んでいたと描写されているので、なかなか気合が入ったゲーム好きがいるんだな、と小説を読みながら感じていました。
鏡が置かれている広間の階段を上がってすぐにある部屋です。
映画では、なんとオオカミ様が最初にそろった7人をその部屋に連れていきます。
そこで「自己紹介をしろ」「好きに過ごせ」と言うのです。
そして、その部屋にはオルゴールがある…というのは、実は小説版では見当たらない描写でした。
願いの鍵を探す過程で動かしていたのですが、小説では願いの鍵を探す描写自体が事後報告中心だった、ということも理由にありそうです。
時間の観点もあるのでしょうが、映画のオオカミ様の方が親切だなぁ、なんて小説を読みながら思っていました。
「ゲームの間」ひとつでもこれほどに違いが出るのだな、と改めて感じました。
②女子達が仲良くなるスピード

映画では、こころが城に顔を出すようになってすぐ、ぐらいのタイミングで探検中のこころをアキがキッチンに誘い込みます。
彼女はお茶を水筒に入れて持ってきていました。
ティーカップはあるのに水は出ないから、と言いながら紅茶を振舞います。
フレーバーティーを飲んで談笑し、こころは居場所があるんだ、と認識していました。
小説では、先に「ゲームの間」でこころは居場所を認識していました。
マサムネとスバルの、少し分かりにくいかもしれない優しさや誘いが、当時のこころは心地よく感じていたのでしょう。
私にも、似たような感覚があった時期がありました。
自分が居心地がいい、居ても大丈夫…そう思える場所の有無が一番必要なことなんだな、としみじみ感じますね。
特に、中学生の時期は、ホントに学校と家、時々塾などの習い事が全てと感じることも多いでしょう。
そんな時だからこそ、居場所がある感覚は大事になってくるのですね。
③アキはいつもあの人から逃げていた
映画の中では印象深いタイミグでアキが現実から城に逃げてきたことがあります。
オオカミ様の機転でその時だけ城に逃げることができた、とこころは後から知ることができました。
その時にアキが身に着けていた制服から、それまで誰も触れていなかった出身地の話ができるようになったのが印象的です。
原作の中では、おばあさんの存在が大きく、城に逃げた原因の人からおばあさんが日常的にかばってくれていて、対面しないように気を付けていることがわかります。
アキの過去の中でクローゼットに隠れるという描写もあり、おばあさんがいたから生活できたと感じていることが伝わってきました。
文字であるからこそ、アキにとっておばあさんの存在がいかに大きいか感じられる描写になっていました。
『かがみの孤城』の特に映画でよかったと感じたポイント3つ

『かがみの孤城』は映画だからこそうまく伝わっているな、と感じた箇所が数多くありました。
視覚的、聴覚的により伝わるものがある、と心から感じたものが多かったな、と思います。
小説よりも臨場感高く、より分かりやすかったポイントを3つまとめてみます。
①こころが学校に行けなくなった原因の描写の臨場感
こころは、学校に行けなくなるに至った理由があります。
その理由は、本当にこころ自身が命の危機を感じた、それだけです。
大人たちが使う分類には当てはまらない、とこころ本人もモノローグで言っています。
ですが、例えその出来事が大人たちにとっては一言で片づけられてしまうものであったとしても、当の本人にとって大きな意味を持つ、ということはありますよね。
その出来事の描写は、音と映像がある、映画の方が本当に心に迫るものを感じました。
こころは、理不尽と闘っている、ともいえるのかもしれません。
こころ自身は何もしていない。
それでも、現実として、生きていくためにこころは闘っている…その相手を知ることができる描写でした。
そのシーンを思い出すこころの、耳に、心に残ってしまったのであろう、声の残響に、涙が溢れそうになります。
闘っているこころと共に在りたい、大人としてそう思ったワンシーンでした。
②こころが喋り出すまでの間で心情がみえる
こころは、物静かな少女です。
それはどの描写でも、媒体でも、わかりやすいと思います。
ですが、「間」の演出ができる映画だからこそ、彼女の心が見えることが多々ありました。
例えば、こころは自分のことを話しだせるのか、よく空気を読んでいます。
その思い悩んでいるタイミングは、こころの言い出すかどうするか考えている側面が見え隠れしていて、こころの心情が伺えました。
こころも精一杯、今のままじゃだめだ、と思っているからこそ、誰かに話をしたり聞いたりすることができていると思います。
決意を固める一瞬一瞬が見えるので、私は「間」も含めて、映像化の成功ポイントだな、と感じました。
③「×」に手をかざしてこころが見たみんなの過去描写
こころが「×」に手をかざして他のメンバーの過去を見る描写があります。
時間的な制限が多い中、映画であるが故に流れながら(走馬灯のように)見ていくことで各キャラクターの過去に触れることができました。
その描写が、注目している箇所やこころが気が付いたことを拡大して視聴者にも気を付けさせたり、こころの急いている気持ちが流れゆく画面と一体になっていてより一体感を感じることができました。
なによりも、過去である、誰の記憶である、ということが分かりやすいようにこころもそれぞれの顔を思い浮かべ、それが映像でも表現されていました。
文字であの疾走感の表現は、全体のバランスからなかなか難しいのだろうと思います。
映像ならではの動きが、逸る心と焦る気持ちを合わせながら、同時に確かめたいという意思を伝えていたと思います。
『かがみの孤城』の小説を読んでよかったと感じたポイント3つ

映像で見るからこそ、なおよかったと感じた箇所がありました。
それはつまり、文字で読んだからこそ深堀出来ていると感じられる箇所もあります。
特に、『かがみの孤城』は城以外の描写をどこまで取り入れるのか、おそらくとてもバランスに苦慮しただろうと思います。
小説だからこそわかる、丁寧な描写の良かったポイントを3つ、紹介していきます。
①こころ目線でお母さんの心情がわかる
『かがみの孤城』の主人公はこころで、こころの背後から地の文が説明しているような文体です。
あくまでもこころが感じている感情と想いを余すことなく伝えることに主力を置いているのだな、と読みながら感じました。
映画の中ではこころのお母さんは共働きならではの時間の使い方をしていて、こころもどこか遠慮しているように見えました。
しかし、小説ではこころが感じている親の存在に対する疎ましさも含めて、1人の存在としてのお母さんが見えてきます。
こころは、確かに煩わしいと思っていることもあるでしょう。
ですが、大人だからこそ、お母さんの戸惑いもまた、わかるのです。
怒るようなことではない。でも、心配だから口数が多くなる。
信じて待つ方向にシフトしていくお母さんの立ち位置や、こころのために学校の先生に対峙する姿はお母さん自身の思いを、こころは汲み取っていました。
丁寧に描写ができる小説だからこそ、見えた側面だと思います。
②こころが城にいない時の生活を感じられる
基本的に映画は城にいる間の描写が中心です。
こころがフウカの誕生日を知ってプレゼントを買いに行こう、と外に出る描写はまさ闘っているこころの姿が描かれています。
近くのショッピングセンターに行くことがこころにとって本当に遠い道のりで、コンビニまで行くだけでも恐怖と闘う彼女がいました。
夏休みだからどこかに出かけるか、と父親から語り掛けられて、外で同じ学校の人に認識されるのが怖い、と突っぱねるこころもリアルでした。
こころの現実が城以外にもきちんと存在し、その都度葛藤しながら前に進もうとしているところを感じられました。
③「心の教室」の成り立ちがわかる
『かがみの孤城』の中で出てくるフリースクール「心の教室」は、原作の中では成り立ちも描かれています。
キーパーソンである喜多嶋先生のかかわりや、そもそも「心の教室」が目指しているところにも触れられていました。
学校でもなく家でもない居場所を提供しようとしている「心の教室」は、『かがみの孤城』に登場する、現代の中学生にとって必要な人もいる第三の場所である、と感じました。
「心の教室」があるから、喜多嶋先生がいるから、と頼りにしている様子に、ひとりで苦しむ子供が別の居場所を見つけられることを願わずにはいられない、そんな心に残る一幕。
これは、小説だからこそ、主人公の話が終わった後に、エピローグがあるのです。
『かがみの孤城』は映画でも小説でも、どちらが先でもプラスがある!
『かがみの孤城』は映画でも小説でも、例えどちらが先であったとしてもそれぞれに良さを見つけられる作品だと感じました。
映画が先であったとしても、小説が先であったとしても、違いを見つける楽しさや感じ方についてじっくりと振り返ることができるのではないでしょうか。
こころの心情を理解しながらじっくりと彼女と共に向き合っていくならば小説がおすすめでしょう。
こころのむき出しの感情に触れて自分の心を震わせたいならば、映画がおすすめです。
自分の気になるポイントを見比べるために両方とも見て・読んで比べるのも楽しみになりそうです。
どちらから楽しんでも後悔は少ないと思うので、ぜひ、気になる方から楽しんでください。
そして、これをきっかけに少し立ち止まって、身近な子供を気にかけてあげてください。
居場所があれば、きっとその子供が望むものを見つけられると信じています。
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